昭和48年04月03日 朝の御理解



 御神訓 一、「懐妊の時腹帯をするより、心に真の帯をせよ。」

 心に真の帯をせよと云う所が一番大事だと思う。その前に「子を産むは我力で産むとは思うな、皆親神の恵む処ぞ」と、その次に「出産の時よかり物によかるより、神の心を任せよかれよ」とよかり物と云うのは、よりかかり物と云う事。私は今朝御神前で頂いた事は「モーニングジャンボ」と云う事を頂いた。何かテレビで朝何かやってるその事を頂いた。それからその意味は私はよく分かりませんけれども、私なりに感じた事は。今朝の御理解は大きなおかげの受けられる、云うならもう決め手の様なものだと。
 大きなおかげを願うなら、どうでも此処の所を身に付けなければならないと言う事だと云う風に頂きました。私はそれで感じたんですが、お互いが本当に大きなそれこそ、偉大な信心をさせて貰うて、偉大な迄の大きなおかげを頂きたい。しかもそれは限りない大きなおかげを頂きたい。今朝の御理解はそう言う事を皆さんに聞いて頂こうと思う。勿論ここには懐妊、いわゆる出産そう言う事を説いて御座いますけれども、これは決して女の方が子を産むとか、懐妊のときと云う事だけではない。
 云うならばおかげの元と云う物は、おかげが私共の上に宿る時、神様がね、大きなおかげを下さろうとする働きがです、私共の心に、例えば宿る時それを大事にして行かなければならん。しかもその大きなお陰は自分の力みとか、我力では出来んのだと。みんな親神様の恵む所であるのですから、そのお恵を、もうそのままに頂かせて頂く為にです、出産の時よかり物によかるよりと仰る様に。
 いわゆる人にすがったり頼ったりしておかげを頂こうと思うな、もう神様に心任せてよかれでなければならぬ。神に心任せてよかれよと。ですから、もう本当に大きなおかげを頂かせて頂く為には、私共がね、此処の所の今日はその中の懐妊の時、腹帯をするよりとこう仰るその御教えですけれども、その前後にやはり子を産むは我力で産むとは思うな、親神様の恵であるぞと。
 又は愈々の出産の時に、もう愈々産まれると云うときに、よかり物と云う事は、誰にすがり彼に頼ると言う事です、せずにもう神様に全身全霊を神様に委ね任せておかげを受けよと云う事ですから。ね。此処ん所を私共は、日々信心の稽古をさせて貰うと云う事もです、そこに焦点を置いておきますとです、ははあこの事が大きなおかげを頂く元だなと分かるです。だからその元がその時に宿るのですから、それを大事に大事にさせて頂きます時にです、十月十日とまあ出産を申しますけどです。
 その時期の來る迄を腹帯なんかをするよりか心に真の帯をする。心にしっかり真の帯をさせて頂いて、おかげを頂かせて貰うと云う事なんですから。しかもそんなら私が今日、いわゆる「モウニングジャンボ」いわゆる今朝の御理解はそういうそんなら、願って止まない大きなおかげを無事に頂きおおせられる為には、どういう信心させて頂いたら良いかと云う事を今日は聞いて頂くので御座います。大きなおかげを頂きたいと云うてから、大きなやはり受け物を作らなければならんのです。
 是はもう道理です。心は消し粒の様な心であってから、そして大きな大きなおかげを願う、是はもうおかげの頂けれる筈がないです。昨日、高橋さん所の、謝恩祭。まあ合楽の皆さんの場合、何処へ参りましても、謝恩祭でもさせて頂こうと云う、お家が沢山ありますが、やっぱり、年々歳々、おの信心が進んで行っておられる証拠に、頂く御理解もさる事ながらです、そのお祭りの内容も非常に充実した、有難いものになっておると云う事は、信心が、段々育って云って居る、証拠だとこう思います。
 あちらにお参りをさせて頂いてから、一番に私が頂きましたのは、こんな素晴らしいかぶは見た事無いと云う様な座りかぶです。お野菜の座りかぶ。もう見事なすわりかぶ。そのすわりかぶの葉っぱをこうむしった様にしてある、取ってある。すわりかぶと云うのは、是はお道の教師の事を御理解して下さるときに頂くのです。金光様の先生と、座りかぶは座りの良いのが最高だと言われております。私共でも初めから此処へ座ると云った事は、そんな楽な事ではなかった。
 それこそ泣く泣く辛抱しながら座っておったら段々座り良くなってきた。いや此処に座るという此処が一番の場だと云う風に最近は感じる様になった。もう此処に座っとって立とうごとしてこたえん。此処に座った途端にもう眠うしてこたえん。もう御結界は眠る所のごと思うとる人がある。もう立とうごとして、立とうごとしてこたえん。それでは金光様の先生は勤まりません。
 だから本当にこの畳半畳に座り抜かせて頂く。或先生が、もう金光様の先生ちゃ、もう本当に監獄に行ったごたる事ば一から、言われた先生の話を聞いた事があるが、と云う程に苦しいと思ったら苦しい所です。動かれんのじゃから此処から。確かに金光様の先生と、座りかぶは座りの良いのが最高だと。私はそういうお知らせを頂いてから、是は皆さんも知っておられる通り、高橋さんの信心をまあ、昨日はまな板の上に上げてと云うて、お話をさせて頂いたんですけれども。
 本当に一つお互いが、昨日あそこに、お参りし合わせた者に、それを話聞いて頂いて、本当にそこだな、そこをおかげ頂かなきゃならんなと、思わせて頂いたんですけれども、もう本当に、金光様の先生を志す者でも、金光様の先生をさせて頂いておる者でも、高橋さんの真似、高橋さんの修行は出来ませんよね。此処には朝四時に出て来ておられます。それこそあれ程しに大変なお商売を、しかも長崎ですかね、福岡久留米、北九州の方辺りにも、沢山の支店を持っておられて。
 もう本当に何処も此処も手の放されない様な仕事をしておられるのにも拘らず、もう神様の御用と云うたら、もうそれこそ合楽に、場合には浸りきっておらなければ総務と云う御用は出来ません。ですからその御用に専念しておられるし、そんなら御用の上に於いても、又はそのお参りの上に於いてもです、福岡から十何里の道をずーと毎朝毎朝ですからね。しかももう三時位には出て見えなければならんでしょう。三時ちょっと前かも知れません、そして此処に私が四時の御祈念に出る迄には、此処に来とく。
 もしそれが遅かったらその日は断食すると言った様な厳しい修行をしておられます。もう御用の点では誰が何と云ったって、今の合楽では高橋さんの右に出る者はおらんでしょう。ですから、とてもお道の教師ででもです、出来る事じゃない程しの修行をさせて頂いておると云う事だと思いますね。もうこんな座りかぶ見た事がない。成程そう云う一心をもって縋るからです、成程おかげを頂く筈だと思うのです。
 ですからそれはですね、一生懸命にそういう修行をして縋るからおかげを頂いておるのであってです、もうそれこそ、そんならそうい修行が止んだら、そんならおかげの方がピシャッと止んだりしはせんかと云う感じがするでしょうが。所謂この葉っぱの方が、葉っぱは何ーにもならんごとあるけれども、この葉っぱが生き生きしておるのも見た時、既にそれは素晴らしい座りかぶだと云う事になるのです。
 見た目にも、もうそれは家内が申します様に、もう本当に高橋さんを見ておると、お父さんああたの若い時といっちょん変わらんと云うごと神経が細かい。もう是はあそこへ、お店へ行かれたら昨日は初めてあちらのスターレーンのお店へ行きましたら、それはもう本当に最高級のお寿司屋さん、店が出来てます。もう隅から隅迄神経の行き届いた事。是は本店の方でもそうです。
 それは古いお家ですけれども、もうそれは隅から隅迄行き届いておるのです。所謂全神経、高橋さんの神経が店の隅々に迄こうやってそう云う働きが現れておると云う感じなんです。ですからそういう神経を持っておられるからこそ、そんならああ云う綿密な信心も出来なさる訳でしょうけれどもです。これにもう一つですこの葉っぱの方、誰が見ても素晴らしいと、秋永先生じゃなかばってん「高橋さんなすぐ、此処の所にハの字のしわを寄する。自分が気分がもやもやするとすぐ分かる」と云う訳です。
 誰だってそうです。もやもやした時にニコニコする者はおりませんですけれどもですね。だからどういう事でしょうか。結局大きゅうなれ大きゅうなれと云う事なんです。豊になれ、心が大きゅうなれ。私はこの大きゅうなれ大きゅうなれと云う事を言うのは高橋さんとそれからむつやの信司君ですね。もう大きゅうならにゃもうそのそう云う苦い問題なら苦い問題でも、あんたが大きゅうなる為の神様の材料だと言う風に私は何時も、此処でいっちょ大きゅうならにゃならんばいとこう言うです。



 昨日こちらから丁度あちらへ発とうとする二、三十分前に日田の綾部さんから電話が掛かってきた。最近もう本当に高利貸しに徹した此処へお参りして来られる永野さんと云う方。 もう綾部さんの事をお姉さんお姉さんと云うて、その慕った様にしておられるし、難儀な時に綾部さんが色々とお世話をやかれたと云う方がおられます。それがあちらとの関係を持っておられたんですけれども、今度ある事でお金を借りておられてから、それは勿論元利とも支払ってしまっておられる訳ですけれども、今度その買うておられた土地が売買になりましてね、それが大変な値上がりになって売れた訳です。 
 所が中から入って来てその方がですねえ、初めはそれは全然考えておられなかったけれども、三百万こちらへよこせと云う事になり、その次には今度は六百万円よこせと云う事になり、もうそれでしまえたかと思うたら、昨日は使いの人をよこしてから、もう三百万、九百万よこせと言うて来なさった。所がですね、そげな信用した仲じゃから、白紙の委任状を向こうに渡してあった訳です。だから向こうが汚れようと思うなら、どげんでん汚れられる訳ですよ、言うならばですね。
 ですから、いかな綾部さんも、そのちょっと、もう余りもの事に、けれども私は永野さんの場合は見事だと思うですね。高利貸しはそこに徹底して行かなければ高利貸しは出来ません。此の人はもう、兄弟のごと付き合うとるけんでと云うて、人情どん使いよったら絶対高利貸しは出来ません。私はそれは見上げたもんだと思うたですね。そういう意味で。それは私とよう似とる。私共はもう徳を受ける為にはもう親も兄弟も無いです。本当に是がお徳の亡者です、云うならば。
 だから私は、永野さんが見えた時、一辺あなたはどうでもこうでも、金色夜叉になりなさいと、私が申しました。もう金色の、本当それに徹底しなさいと。だから、それに徹しよんなさる訳ですけれども、実際そんな、ら綾部さんにして見るとです、もう大体は全然払わんで良かつが、三百万払わんならんごとなった。次には六百万、今度は九百万払わんならんごとなった。
 使いに来た人が夕べ、一晩寝とる間に、また主人が欲の出たつじゃろうと云うて帰んなさったと云う位です。ですからそれを、そんなら私は黙って受けよと云う事です。私はその事を此処でお届けさせて貰いよりましたら、百、百万と云う所からですねえ、もう一つ是に零を付ける所を頂きました。一、十、百、千と云う様にですね、0を一つづつ付けて行くと、百万は千万になるでしょう。大きいでしょう0を一つ。だから私はね、大きゅうなると云う事はね、この0を一つづつ付けて行く事だと思うです。
 もし高橋さんにこの0が一つづつ付けて行かれたらいよいよ鬼に金棒だと思うです。只大きゅうなっただけではいかんですよ。けれども高橋さんの様な神様に向かう信心の姿勢と云うものが、修行も出来たその上にです、いわゆるこの0になって行くと云う事はそういう都度都度に自分と云うものを無くして行く。空しゅうして行くと云う事なんです。0と云う事はね。そこで私は綾部さんに申しましたが、この事をもって儲るとか儲らんと云う事じゃなくて、この事を通して信心の稽古をさせて頂きよると思うたら、有難いでしょうがて、私が。
 と云うて九百万払うたと言うたけんでから、自分の預金まで持って來んならんと云う事は無いのじゃから、払おうと思や払えるとじゃから、儲りの中から。だからその事を通して信心の稽古をさせて頂いておるんだと、それも一辺二辺じゃないでしょうが。三辺じゃから三百万よこせ、又三百万六百万よこせ、そして九百万貰うた上に又お包を一つも貰わんならんと云うて帰られたけんで、もうそれでしまえたと思うちゃった。
 所が今度は又一晩寝らっしゃったら、又向こうに欲が出た訳です。もうどげんでん出来る、白紙の委任状を握っちゃるから向こうが、しかもそれは姉さんと云うて、兄弟のごたる付き合いをしよる人がですよ。けれども、是は私は永野さんの立場で見るとです、綾部さんとても永野さんと云う人は、それはもう高利貸しとしては最高の偉い人ですよと、とてもそれはもうそんな事は知らん者にでん、普通なら言いきらん所だけれども、兄弟のごとしとる所を、それを平気で言うてのかされる所は、それはもう見事だと、もう敵ながらアッパレだと言う様な感じでしたですね。
 ですからそんなら、それを受ける方の綾部さんの方がです、もう是に依って稽古をさせて頂くんだと、例えば自分を空しゅうした時です、向こうが千万取ると言うなら千万でも払おうと言う気になったらいい訳です。自分を空しゅうする。そこに百万の位から千万の位にしとったら、0が一つづつ多くなっていく。成程モウニングジャンボだなと私は思います。例えば今日の御理解で行くなら、そういう大きな徳の受けられる、百万の徳より一千万の徳の方がいいでしょうもん。
 そういうおかげの頂けたその元の時にです、そういう宿った時です、そういうおかげの頂けれる材料とか元がです、私共の心に中に宿った時に、それをいよいよジャンボな物にする事の為に、それを大事にして行かなければならない。そして此処であります様にですね、自分の力で産むと思うな。それこそ教主様のお詠じゃないけれども。「何一つ世話にならねばなしえざる 吾ぞと思う 世話になりつつ」と云う。もう本当に神様のおかげを頂かなければ産みなせないんだと云う所からです、力みもいらなければ、いろんな手だてもいらない。
 最後にあります様に、よかり物によかるよりも神に心任せてよかれ。人にそう云う時に縋るな、頼るなと云う事。神様に心任せてよいおかげを頂けよ、よい安産のおかげを受けよと云う事なんです。私は本当にね、お互いが大きなおかげが頂きたいと思うなら、日々の中に心を大きゅうする材料は幾らもあると云う事。私はどうでも、私は高橋さんの信心をその、本当に皆さんが高橋さんの信心の様な真似をするなら、もう絶対おかげ頂くです。それにです、言うなら私が高橋さんに其れこそ、頼む様に夕べから言っておる様に、この葉っぱです。
 うちの大将はもう何処迄深いか分からん。何処迄大きいか分からんと、例えば小僧さんどんにでん、その職人さんどんにでん思う程しの私は心にならせて頂く事に向きを変えられ精進をされたならです、一辺に出来るとは思えません。本当に此処だけは玉に傷だよと言うごとあるけれども、その玉をです、本気で研いて研いて研いて行きよる内に研ききってしまうです。
 だから一辺にとは思いませんけれども、そうだと云うことをね、一つ確信しなければならない。そして自分はいよいよ豊に大きゅうならなければ。そんなら豊になる為には力が要る。今の高橋さんの信心修行でするならばです、その修行を大きゅする事の為の修行に切り替えなさったら出来ん事はないと私は思う。私の様な消し粒の様な、いわば神経の持ち主すらです、今日この位なおかげを頂いておるんだから。
 そこに限りない大きなおかげが、是はもう大きな受け物が出来るんですから、どうぞどうぞと云うてお願いせんでも頂けれるおかげなんです。限りないおかげなんです。そういうおかげの頂けた時が、私は本当なものだと。成程心に真の帯をせよと、心に真の帯をしておらなければです、此処で一つ大きゅうならにゃんと云う時に、かえってイライラ、モヤモヤしたりして結局、折角のおかげが産まれて來るのに流産して仕舞うと云った様な結果になっておる事が、お互い有りはせんだろうか。
 どういう、大きな赤ん坊で、安産のおかげが頂かせて、頂けれるおかげを頂く為に、今日は私は、云うなら懐妊の時女の方の、いわば出産の時に付いての、御理解ですけれども、道理は同じ事です。お陰が私共の心に、おかげの元が宿る、徳を受ける元が、宿るそれを大事にして行く所から、それが、立派なお徳として生まれる。おかげとして生まれる。しかもそれは、限りないおかげにつながる。そう言う、おかげの頂けれる信心をですさせて頂く。為には、私共がしっかり真の信心の帯をしておかんとです、うかつにしておりますと出来ません。
 昨日私はそれこそ、心がサッパリしないと云うか、昨日丁度ここを佐田さんの車で福岡にやらせて頂きました。こげなサッパリせん気持ちで行ったならどうなるだろうかと思うくらいに、心が自分でもう悲しいごとある。たったこの位の事がどうしてこげんサッパリせんじゃろうかと。例えばそんなら綾部さんの場合なんか、そういう大きな問題であろうが、是は人間と云うものは、たったこの位の事にどうしてこげん腹が立つじゃろうかと云う時が有るでしょうが。たったこの位の事にどうしてこんなに心が暗くなるじゃろうかと云う時が有るでしょうが。
 だからそういう時には、もう一心に神様にお縋りするより他にないです。私は時間で云うなら二十分位じゃったろうと思いますけれども、もう心のサッパリせん事おびただしい。もう車の中に乗ってもジーッと心中祈念させて頂いた。そしたら前に乗っておられる繁雄さんと佐田さんが一生懸命お話をしておられる。
 それが丁度甘木の近所を通って行くときに、この辺の、あの片やら、そのうあのう空襲のある時分は私は召集されてから大刀洗の方へ行って、そして大刀洗の空襲の時に、もう目の前に次々と爆弾でやられていきなさる人達の姿を見てからと云う、その生々しいその時の話をそこの横を通る時ですね、此処のにきで此の事があったという話を、二人で一生懸命していかれるのです。
 そん時にです、私の心の中にね、はあ本当に、戦争と云うものは、悲惨な事だなあと、本当に、真の平和を祈らなければ出来ん。もう戦争どんする様な事があっちゃならん。本当に、真の平和を願わにゃならんと云うて、その事を、一生懸命願いよるうちに、私の心が段々、段々有難うなて来た。今迄心の中に、何かモヤモヤしとったものが、スキッとする段じゃない、反対に、今度は有難うなって来た。私の表情をもしあん時見とったら、変わって行く表情が感じられる位に、心に中が豊に有難い。しかも、世界真の平和を願う程しの心になった。
 ですから、そう言う時があります。是はもう、自分の心に、はばからんと云う様な時がありますけれども、さあ其処ん所が、おかげを頂いて、生神金光大神様です。そん時が金光大神の、お取次を頂かせて頂いて、綾部さん、其処ん所をスキッとするおかげを頂く、いやむしろその、00さんに御礼を言わなければならない程しのです、心の状態と云う物は、とても今が百の位から、千の位になろうとしとる所じゃけん。
 是は御礼を申し上げにゃならんとばいと、心の中に頂けた時にです、もう四時間半かかった。もう仕方が無いと思われたのは。けれども仕方が無いじゃいかん。もう本当に有難いスキッとした心で其処ん所をおかげ頂かにゃいけませんよと云うて昨日話した事ですけれども、御理解と云うものは神様へ向かうと云う事はです、心がスキッとするんです。そういう稽古をさせて頂き乍ら、云うなら高橋さんの今しておられるああ云う。
 現在しておられる信心も見習わせて頂いて、そしてそれをひとつ表行と云うならば、そんなら心の上にそういう素晴らしい心行をさせて頂いて、もう心と云う物はどんなにでも小さくなるかわりに、もうどんなにでも野放図に大きくなるものです。ですから限りないおかげを頂きたいならば、一つ限りない心の、偉大な心を頂かせて頂く事の為に、真の帯をしなければです、折角のおかげの元が宿ったのにそれが流産になる様な事では相済みませんですからね。 
   どうぞ。